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視覚優先とスケジュール

W.T.T代表 鏡 京子

視覚優位

私達は通常"五感"というものを持っていると言います。そして、"第六感"六番目の感覚という事も、近年特に取りざたされるようになりました。五感には、見る−視覚、聞く−聴覚、かぐ−臭覚、味わう−味覚、触れる−触覚があります。第六感は、人の気持を察する能力、人の立場に立って物事を見、判断する能力、誤信課題を解く能力等々だと言われています。それらは、生まれながらにしてそなわっているもの、または人間社会において育ちながら自然にそなわってくるものとも言われ、特別な努力や特殊な経験がなくても、社会生活を営む上で困らない程度の能力は、多くの場合身に付いてくるもののようです。 六感の能力は実に人様々です。私の六感に関して少しお話すると

見るということ:

私は新聞を読んだり、車を運転したりするのには不自由を感じることなく見えることができていましたが、最近辞書の文字が見えにくくなってきました。齢には勝てず老眼鏡を作ろうかどうしようか悩んでいる所です。また趣味の絵の絵具を選ぶ時には、青緑と緑青の識別をする為に色見本が必要です。それから、蛍光灯の下にいると眩しくて耐えがたく感じます。ですから我が家の灯りは全て白熱灯です。

聞くということ:

私は音楽を聞き、楽しみますが、絶対音感も相対音感もありません。日本語への吹き替え無しの外国映画を見ても、その会話は殆どが聞き取れません。たまさかに聞き取れたとしても、それらが持つ意味や内容がわからないことがあります。クローズドキャプション付きのテレビを利用して同じ映画をビデオで見ると、画面の下に出る文字にいつも驚かされます。そこには知っている英単語がたくさんあるからです。また、トンネルをくぐる時のボゥワ−ッという音には鳥肌が立ちます。

嗅ぐということ:

私はお醤油の焦げる香りや、お味噌、トマトソース、柑橘類の香りには食指が動き、お腹もグーグー鳴るほどです。しかしながら、香水の調香師ではありません。また、日に当てた蒲団の匂いが大好きですし、紅白梅の香りには早春を感じます。

味わうということ:

我が家の三人の子ども達は、私の作るご飯を毎回毎回「美味しい!」「美味しい!」と食べてくれます。しかし、全く同じ味のものを作る事は計量スプーン無しではできません。私には好きな味と嫌いな味があります。嫌いな味にはとても敏感です。ほんの少し入っていてもわかるくらいこの点では優秀です。

触れるということ:

私は綿や絹という天然素材の洋服を心地よく感じます。点字に触れると突起があるらしいことはわかりますが、配列や数を判別することできません。雨上がりのアスファルトから立ち昇る夏の熱気に、毎年のようにドキドキさせられます。

六番目の感覚と言われていること:

私は人が悲しんでいる時にそっとしておく事ができます。アンが脱いでしまった靴をサリ―が別の所に隠したら、アンが何処を最初に探すかわかります。話している時に、その相手の方が時計をチラチラ見出したらお話を切り上げようと思います。笑っている人がいると楽しい事があったのかなと思いますが、時々そうではないことがあります。笑いながら怒ったり、泣いたりする人もいるので、まことに人は不可解だと思います。このように私は六感のそれぞれの中の能力において、色々なバラツキを持っています。
 では私の六感間での能力の違いはどうでしょう。人に行きたい所を教えてもらう時、地図があると便利です。一緒にその地図を見ながらフムフムと私は聞きます。地図が無い時は、なんとなく言われた通りに略図のようなものを思い浮かべながらウムウムと聞きます。道が聞きたくても地図のない時は、この図を思い浮かべるという工程が1つ増えます。工程が増えた分だけ置き換えの幅が広がり、なかなか容易ではありません。増やす努力をしながら私個人はかなり不安です。もしも、図が正確に思い描けなかったら、私は行きたい所に行き着くことが、この頭の中の図だけではたぶんできないでしょう。見ることによって共通の理解の元にある作業をこなす事は、聞くだけの作業よりずっと私を安心させます。この場合、聞くことだけよりも、聞きながら目で確認できることが私の助けになっています。
 外国で数年間暮らしたり、数週間の旅行をしたりしたことがあります。ひとつは英語圏で、もうひとつは仏語圏です。ここで生活をしている間、私は言葉だけのやり取りがとても苦痛でした。
 このような苦手さがあった場合、多くの方々はどうするのでしょう?その時の私の行動は、会話をする期会をできるだけ遠ざけて、可能な限り言語で人と関わらないようにしました。それでも子どもが幼稚園や学校に行く、病院で赤ちゃんを産むというような場合のような、やむを得ない時は、苦手な分野での勝負を回避して、得意分野(得意でなくても苦手さを駆使するよりは、まだこっちの方がいいと思った方法)でなんとか補おうとしました。得意分野で何とか"勝負をしよう"としました。それは、可視的世界を使うことでした。つまり双方が見ることによってわかる世界を広げることでした。見てわかることによって、"安心!"と思うことがたくさんありました。飛行場での発着案内や飛行機会社のロゴ入りの案内板、縦横の道路毎にあるの青色の道名表示、缶詰に付いているラベルの写真、コーンフレーク等の箱の絵、バーガーキングやケンタッキーのメニュー写真、美術館の順路案内などなど、上げ切れないぐらい色々あります。私はこれらを見るだけで、その意味することがわかりました。それらが表現している役割を知っていたからです。
 その時よく考えたことがあります。「見る」「聞く」とでは何が違うのかということです。可視的世界と可聴的世界の相違は何処に?と思いました。まず考えたことには、情報を感知し、取り入れる人体上の器官が違うということがあります。それを脳で処理するという点はたぶん同じだと思うのですが、処理の時の使用部位が違うかもしれないし、処理の仕方が違うかもしれないということです。あれこれ日本語で考えながらも、日常生活において外国語を聞いて理解するという可聴的処理は、私には難しすぎることでした。その処理のひとつは聞き取るという作業、そして、聞き取った目に見えない音の羅列を単語ごとに日本語に置き換えて、その上その意味合いを理解するという作業、これらがあって言語によるコミュニケーションがなんとか成り立つわけですので(この場合スピードは考えに入れていません)、一つ一つの工程のいずれもが難しすぎれば如何ともしがたいわけです。もしかしたら、今持っている処理技術をもっと上げることで、少しは対応できたかもしれません。実際にその努力もしてみましたが、間違っているかもしれないという正確さへの心配はいつも付きまとい、確認しづらいことも相乗して、不安で不安でしかたがありませんでした。それよりも今持っている、聞くよりは正確に情報を処理できる技術の可視的能力、絵を見る・写真を見る・辞書を引き引きでも文字を読むなどという方法を、知らず知らずのうちに選んでいました。見える情報に置き換えて、自分なりに理解できるように情報処理をしようとしている時に、一番困ったのは、"親切な"話かけでした。この場合は、先ほどの地図の場合と違い、音があることで余計に混乱することになりました。
 日本語の世界でも、同時に処理すべきものが多すぎると私は戸惑うことがあります。漫画を読むことがそのひとつです。文字のみの本を読むのはかなり速いほうですが(挿絵があるとしばし見入ってしまい、内容が繋がらなくなる時があります)、絵と文字を一緒に見て、瞬時に共通性を持たせて理解するのことが大変苦手ですので、漫画を読むのは遅読の上に非常に疲れる作業です。このように、あげれば枚挙に暇が無くらい、得意な分野と不得意な分野を持ち合わせています。皆さんは如何ですか?
 聴覚優位の人もいますが、多くの自閉症の方は見るほうが得意、『視覚優位』だと言われています。彼らが、脳の中の情報処理能力の関係で、可聴的作業よりも可視的作業のほうが利用しやすいとしたら、私と同じように、暮らして行く中で様々な事への対応の技術として、そちらの得意分野で "勝負をする"のは至極当然のことでしょう。何も特別な事のようには思えません。
  しかしながら、視覚優位だと言われても、それを活用する為の共通の意味を持つという技術が、暮らしを営むにはあまりにも未熟で育っていないと、逆に誤解を生む可能性が高いので、その場合は辛いことがたくさんあるだろうと推察致します。見たものとそれが意味することが繋がらないと、せっかくの得意分野が有効には使えないかもしれません。また、視覚的手掛かりを大切にするためにも、視覚優位が故に受けてしまう刺激の多さの整理も自身が有効に使えるために不可欠な事と思われます。この現存する社会の中で暮らしていく以上、自分本位な、かってな意味付けやそれによる混乱によって、生活できる場所が限られていくのは本当に不幸なことだと思います。トランスフォーマー(通常は、変圧器:交流電圧を上げ下げする電気機器のことですが、私は互いの考えや思いを電流になぞらえて伝え合う為の、通訳の部分をこう読んでいます)を稼動させるひとつの資源として、視覚優位という得意分野がひとりひとりの生活の中で、真に生かされると本当に素敵なことだと思います。

スケジュール

私は朝目が覚めると、一日の段取りをベッドの中でボヤーッとですが算段を致します。それから、いつもの朝の喧騒の中、子ども達の予定を確認し、「いってらっしゃい」と送り出します。そして、コーヒーを飲みながらシステム手帳のスケジュールの項を出し予定をチェックします。そこで、再度もう少しはっきり今日の流れを思い浮かべ、既に記述済み以外の忘れてはならない事を手帳に順次書き留めます。私の場合、頭の中だけでですとすっかり抜け落ちてしまうことがあり、例えばトイレットペーパーを買う、というような事であっても、ボコッと落としてしまった日の夜はとても気持が滅入ります。
 病院に入院した時、検査であれ、治療であれ、のんびり安静であれ、今日の予定が毎日気になりました。前日に教えてもらっても、時々、変更があるので気が抜けません。朝、再度チェックし、その上ひとつひとつが確実に終わるのかどうか、自分の中で密かに点検、及び確認をしていました。もし一日の流れが全く自分でコントロールできないとしたら、私はとてもストレスフルになると思います。その上、それを管理している人が全くそのことに関して教えてくれないとしたら、ストレスはさらに数乗になり、何かがひとつ終わる度に「これでいいの?」「ね!あっている」と確かめ、「次は」「次は」「次はどうするの?」と尋ね回ると思います。
 もしも、聞くことも尋ねることも叶わなかったら、何らかの方法で情報が入手できなかったら、私は大恐慌の中、逃げ出すことも侭ならず立ち尽くしてしまうような恐怖に突き落とされるでしょう。そして、誰かが「こうすればいいよ」と言って下さっても、それが得策かどうか、危険がないかどうか、ということすらわからない中では身動きできないと思います。ある程度決まった形のものがあると、予定が変わるという事を何もない中よりは、たとえ不承不承の場合であっても、少しは不安なく受け入れやすいように思います。また、どうしても納得できない時の交渉の手がかりになります。私もよくわかっている日常になってしまっている生活の数々は、いちいちスケジュールにあたることはありません。しかし、「今日は燃えるごみに日だったかしら?」のように、「あれ?これでよかったかしら…」「この順番はどうだったかしら…」と思った時、確認できる手段として、スケジュール(予定表)は大変便利です。
 スケジュールという明確なものが無くても暮らしていける人はたくさんいるそうです。今日どんなことに出会うのか、予想できないことが面白いという人もいます。私もよくわかっていると思える日本社会では、それを期待することや楽しむことができますが、外国ではコミュニケーション上の不具合さだけでもかなりストレスフルですので、そのような余裕は持ち合わすことがなかなかできません。常識が異なる上に、コミュニケーションに困難さを感じている状態で、予測や予想できないことを楽しむことができる人に出会ったら、たぶんその感覚に到底理解が届かない私は、ただただ感服して仰ぎ見てしまうと思います。新しい体験は、確かに経験を拡げるひとつの窓口になりえます。全く知らないことは選択肢のひとつにすらなりえません。経験をしていないこと、見聞きすらしていないことを選ぶということはたいへん難しいものですが、闇鍋のような体験はとにかく不安なものです。提供する側と提供される側における情報の不均衡には、いつも納得がいきがたく感じます。自らかち得ていく時にも、全く見通しの無い中でそれを行っていくのは辛どいものです。日常の流れが見てわかって、自分で承知しておけることはとても安心です。
 多くの自閉症の人は、診断基準のひとつになるくらいですから、多かれ少なかれ多岐に渡るコミュニケーションの障害を持っています。どうぞ想像の世界にワープしてみてください。何があるか心配でたまらないのに聞くこと、知ることができない世界、聞きたい、知りたいと思ってもどうしていいかわからない世界、「教えて」と声にならない声を体中で表現しても受け入れられない世界、それどころか、色々な人が色々な声や見目形で、自分の周りにやって来てワイワイと容赦なく接してくる世界、いきなり腕をとられて引っ張られたりする世界、"NO"が通じない世界、・・・という世界、何という世界とお思いになりませんか?
 時間や予定を組み立てられるスケジュールは、安心に暮らすためのひとつの道具にすぎません。スケジュールはその人個人のものですから、視覚優位の人のものであれば、内容、長さ、表示法等々、可視的世界を各人バーションにしつらえないと、得意分野を駆使することはできません。安心にそれを使うことができなければ、何が・何時・何処で・どういう順番で行われるか、何がどう変更するのか、という自らを助ける予定(見通し)を知る為であるスケジュールの意味をなしません。自身が本来持っている得意分野を十二分に発揮できる形でなければ、それはいったい誰の為のものなのでしょう。無用の長物は、ただただ邪魔なだけです。
 様々な体験を取捨選択しながら自身の経験を積み上げ、各々の得意分野を駆使して人生の選択を自分の意思でしていくことは、日本において多くの場合叶えられることです。苦手さを回避しながら、または上手に人に頼りながら暮らすのも私たちの日常です。
 多くの障害という名が付くほどの重篤な苦手さを持ち合わせている方々にとっても、これらが日常のひとこまであって欲しいと思います。各々が不得意分野で勝負をしなくてもいいように、自助、共助、公助が互恵的であったら、"安心"という言葉が提唱だけではなく、本人の内なる自信になっていくと思います。

視覚優位とスケジュールの実際に付いては

    自閉症の人たちへの援助システム 朝日新聞厚生文化事業団 500円
    自閉症の人たちを支援するということ 朝日新聞厚生文化事業団 500円
    光とともに… 1・2・3 戸部けいこ 秋田書店 760円+税
      等々をご覧になって頂ければと思います。
〜W.T.Tの紹介〜
    W.T.T とはWork Team TSUKUI (ワークチーム津久井)の略称です。
    私たちのグループは、様々な障害や年齢の子ども達と、サポーター(ボランティア)の方々、母達、そして地域資源(私たちはチームの一員だと思い込んでいます)のチームです。普段、生活をし、活動している場所は、神奈川県の北西部にあり、東京都と山梨県に接している津久井郡津久井町、人口3万の水郷の里です。そこで、障害への理解と啓発に「お母さんの勉強室IN TSUKUI」、余暇支援に「サポートクラブ(休日)、サードパーク(放課後)」、自立への模索に「どりーむ」、そして広報に「W.T.T通信」という5種類の活動を行っています。

2003年版

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