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教育を考える

教育を考える 2003

 カンサス大学 サークル・オブ・インクルージョン・プロジェクト 笠原真帆

 「教育」という言葉で最初に思い付くのが「学校」。最近自分の学校生活を振り返る事がよくある。「何を学んだかな〜。」って。むか〜し昔、幼稚園くらいのころは、さすがに「お勉強」が楽しかったような気がする。けれど今振り返ってみると、いつからか、徐々に徐々に何かが変わっていってしまったことを感じざるを得ない。「こんなの勉強したっていつ使うんだよ〜?」というもっともな生徒たちの声に答える大人たちの声。「いつか役に立つときが来るんだからっ!」わたし自身、その言葉を馬鹿正直に信じて、下手すりゃ偉そうに友達にまでそんなことを言っていたかもしれない。・・・けれど、ほんとに役に立ったんだろうか?わたしは長年の学校教育のお陰で、本当に何かを学んだんだろうか?

 小学校のとき「読書カード」なるものがクラスにあった。要するに本を読んでその短い感想をカードに書くのだが、読書カードの数は教室内の壁に発表され「レース」のようになっていた。わたしの焦点はもはや、本をゆっくりじっくり読む事・楽しむ事ではなく、ちらっと素早くできるだけたくさんの本に「目を通し」、他のどのお友達よりもカードをたくさん集める事になっていた。高校を卒業し、大学に入って初めての試験勉強。一応自分の将来の職業として考えていた心理学のテキストを勉強(丸暗記)していたある日、「はっ。」と思った。「あ。・・・これは高校時代のようにテストが終ったからといって忘れられないんだ!これから一生覚えてなきゃいけないんだ!(頭が爆発寸前)」そして大学院での英語のテキストを読む授業。いつも優しい授業担当の教授が言った。「小山さん(旧姓)はせっかく英語を読む力があるんだから、今度はそこに書かれている“内容”を理解するように努めたらどうかしら?」「あ・・・内容、ね。忘れてた。」目からうろこが落ちる思いがした。

 このいずれの想い出も、悲しいくらい、いかにわたしが学校教育の中で「学ぶ者」としての姿勢を徐々に失っていったか、「学ぶ者」としての喜び・特権を奪われていったか、ということを物語っている気がしてならない。「教育」は、大人が、教え、育てる事、であってはいけないと思う。なぜならそこには「学ぶ者」の吐息が聞こえないから。「学ぶ者」の輝く目をみつめていないから。本来「教育」ってのは、日々の生活の中での具体的な経験・体験を通して、自ら何かを不思議に思い、知りたいと思い、学びたいと思い、学ぶ過程の中で自由に新たな情報や知識を五感全体と心で吸収し、推理し、悩み、発見し、納得し、「ああ!そうなってんだ!そうだったんだ!」って身の回りのそこら中に潜む「未知なる世界」の謎を一つ一つ解き、徐々に目の前に広がっていく新しい世界の色にときめきながら、この上ない興奮と喜びと感動を伴う学びの旅路を、一回り大きくなった自分を感じながら楽しげに闊歩していく・・・そんなドラマチックなものでなきゃいけないと思う。本来は、そういうもんなんだと思う。

 「しょうがい」ってものを学ぶことだっておんなじだと思う。わたしは英語圏の国に住むようになってから「しょうがい」者になった。ど〜う耳を凝らして聞いても相手が話す事の理解は最大80%。残り20%(以上)のお陰で、常に「霧に包まれた」ような程度にしか状況を理解できないというのは、実に不安でじれったいものである。また、言いたい事を思うように、そして思った時に伝えられないというのも、自分の持てる能力や良さに対する自信を失いかけるくらい、更に厳しい状況を作り上げる。けれども、もしわたしが、たかだか英語を100%うまく使いこなせないという理由で、どこか他の人からは遠く隔離された場所に閉じ込められ、普通の社会生活を営む機会を奪われてしまったら、そういう日々の経験の中でしか得られない、ダイナミックかつドラマティックな学びの機会を失ってしまうし、普通の社会の中で生きていくための力を身につける事もできない。また、社会の中で私と接点を持つ人たちだって、私という人間とうまくつきあっていく力を身につける機会を失う事になるだろう。つまり、私だって、みんなだって、しょうがいを持つ人だって持たない人だって、直に触れ合って、一緒に困難に出会ったり間違いをおかしたりしながら、互いの違いを知り、互いの良さを知り、互いの価値を認め、共に生きていく事を学ぶ権利があるんだ。そういう過程でしか、一緒に生きていく、ということは学べないんだ。そう、強く思う。

 しょうがい、人種、経済的環境、家庭環境・・・そんなものを全てひっくるめて「違いがあって当たり前な社会。」「みんなで一緒に生きようよ!」「ここはみんなが一緒に学ぶ場だよ!」
 そんな懐のでっかい社会を目指した教育を、インクルージョン教育、と呼んだりする。日本でも国際的な流れに押されて、インクルージョン・統合教育・交流教育などの名前で徐々に「しょうがい」を持つ子供たちを、普通教育の場に迎え入れよう、という動きが見られるようになってきた。けれども、まだまだ「インクルージョン」のスピリット自体は行き渡っていないように思う。「インクルージョン」が「インクルージョン」でありえるためには、「有意義な参加の保障 Participation」と「仲間としての意識 Membership」というものが、クラスなり学校なり地域なり、それぞれのコミュニティの中に存在しなければいけない。子どものニーズに合ったアシスタンスが子どもの学びに寄り添う形で提供されないまま、「学校」「教室」という枠組みを頑なに保ち、「あたしたちは変われないけど、あんたがうちに合わせて変われるんなら入ってもいいよ。」とでもいわんばかりの「統合教育」の実施には、果たして「有意義な参加の保障」がなされているのか?そして、おっかなびっくり「いつもはできないけど、特別な時には入れてあげるね。」というような、引けた腰で実施される“交流教育”や“五教科以外の時間のみの親学級入り許可”などには、果たして「仲間としての意識」を子供たちの中に育むものとなっているのか?
 私たちは、教え、育てる者の責任として、学ぶ者の権利に基づく教育の在り方、というものを真摯に見直すべきだと思う。

サークル・オブ・インクルージョン ウエブサイト

http://www.circleofinclusion.org/japanese/


教育を考える 2001

  「教育」を考えたとき、各学校の評価をしてみたいという気持ちがありました。 学校の施設状況、個別教育の充実度、権利擁護が守られているかどうかについて、アンケートを配布して採点することも提案しましたが、現時点では自分達の活動にそこまでの力がないということで、断念しました。 学校を評価できる日はやってくるのでしょうか。
  最近は学校教育で、地域との協力や、個別プログラムが提言されています。 公立学校でも校区が撤廃されれば、学校独自の特色を打ち出し、生徒を獲得するための工夫が凝らされるようになるでしょうから、私立学校は今までよりも競争が激しくなるでしょう。 障害児の学校(学級)の選択肢が増えて、子どもの個性に合わせた選択ができるのが理想です。
  特殊学級の先生が障害の特性を知らないとか、養護学校の指導法が確立されていないなど、障害児を集めただけの隔離教育では困ります。 先生個人の努力や能力に頼る状況、学校は預かるだけという状況になってないでしょうか。

 教育実習の時間を増やし、障害の特性を把握した最新の指導方法の研修を、全教師が受けられる体制作りを望みます。  先生がいつも忙しそうで話をする時間が無かったり、指導法について疑問に思ったことを質問したり、良いと思う指導法を提案することが難しい現状について、学校全体で教育環境の見直し、例えば複数担任制や、基礎的な学習の時間に習熟度別授業を採用すること、ゆとりのある教育のために学校行事を減らすことなども考えてほしいです。 個別指導を受けられない普通クラスへの「放り込み」では、学習面でのデメリットが心配です。
  障害の特性に合わせた「個別教育」を、地域の学校で(場所のインクルージョン)、個性に合わせて選択して受けられる。 本当の意味での「インテグレーション」=「統合教育」が、実現することを願っています。 理想の教育を実現するためには、親が学校や行政に働きかけていくことも大切なのではないでしょうか

2001年版 

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